「僕の夢は、将来サッカー日本代表になり、ワールドカップで優勝することです。」
小学校の卒業式。
卒業生が一人ずつマイクに向かい夢を語り、卒業証書をもらうという伝統の行事。
迷うことなく、冒頭の内容を自信満々に語ったことを覚えています。笑
サッカーをやっていれば誰しも一度はプロ選手を目指すでしょう。
しかし、現実を見たとき、夢は儚く散るものです。
そこで、プロ選手ではなくフットボールに関わった仕事はできないものかと次に考える人も多くいるはずです。
クラブスタッフ、トレーナー、そして、指導者。
選手として大成しなかったが指導者なんてできるのだろうか。
自分としての答えは「できる」です。
ただし最大限の努力が必要となりますが、誰しも指導者になれるチャンスはあります。
では、凡人な自分が指導者としての職業に辿り着くまでのどのような道のりだったか。
振り返ることでそこを目指している人たちに少しでも参考になれば幸いです。
指導者を目指すきっかけ
誰しもきっかけはあるものです。
選手から指導者に転換するきっかけなどは人それぞれかと思います。
自分の場合は、選手として成功していたらおそらく指導者になっていなかったと思っています。
失敗が今の道に進めてくれた要因です。
選手権敗退
全国高校サッカー選手権大会東京都大会決勝。
誰しもが夢に描く”冬の選手権”。
あと1勝という試合まで辿り着きましたが、PK戦の末、負けてしまい夢の舞台を目指した3年間が幕を閉じました。
その時に頭に残った思いは、
「これだけ素晴らしいチームが全国大会に出れないのはもったいない。」
というものでした。
このチームが全国大会に出場してもらうには後輩に託すしかない。
でも任せっきりにせず自分で何か貢献できることはないか。
と考えた結果、引退した次の週から後輩と混ざりグラウンドに立つことを選択しました。
めんどくさい先輩ですよね。笑
自分が持っている経験をとにかく後輩に共有していく。
指導者の卵としてアドバイスをする先輩という立場がキャリアのスタートでした。
もし、全国大会に出場していたらおそらく満足してそのまま母校に残るという選択はなかったことでしょう。
痛みとの戦い
選手を一区切り付けようと考えさせた要因としては怪我もあります。
大きな怪我をしたわけではありませんが、慢性的な痛みに日々悩まされていました。
それは紐解くと中学生時代の成長痛からなのかもしれません。
中学生からテーピングやサポーターをしながらプレーするのは当たり前でした。高校ではうまくごまかしながらやっていたものの、3年間の無理が蓄積され、徐々に痛みは増していました。
とは言えまだ若かったので痛みを少し我慢すればフットボールを楽しめるレベルでした。
それもあり大学では体育会でプレーすることはなく、同好会で楽しみながらフットボールに没頭しました。
どこか怪我に対して怖さがあり、指導者という道に行くことでそのことを考えなくて良いのでは?と思うようになったのも指導者への道を加速させる要因でした。
怪我が指導者への道の後押しをしたということもあるように感じます。
指導者の入り口
その後、大学2年生まで母校に残りました。
アドバイスをする先輩にも限界があり、チームは思ったように結果が出ませんでした。
やはり指導するという難しさを感じ、アドバイスする先輩から指導者を目指す意思が芽生え始めたのが大学2年生を過ぎたあたりからでした。
U-18 → U-12
高校では指導者というよりアドバイザー。
論理性も無ければ、具体性もない。とにかく感覚の世界。ここを変えたいと強く感じていました。
そこで自分が取った選択は、指導者の入り口を知ることでした。
日本のフットボール文化を見渡した時に、まず指導者として学ぶべきはU-12カテゴリーなのではないかと行き着きました。
このカテゴリーが全てのスタートであり、学ぶべきカテゴリーであろうと。
そこで縁あって、現在も勤務している東急スポーツシステム株式会社にて指導者キャリアをスタートさせることなりました。当時20歳でした。
右も左もわからずとにかく指導者とは何なのかを0から教えてくれました。
主にU-6〜U-12カテゴリーのアシスタントコーチとして2年半勤めました。
その後、現在に至るまで14年間メインコーチとしてスクール業務(チームではなく、通い型のサッカー塾のようなもの)に携わることで指導者としての在り方を学ばさせてもらっています。
ライセンス取得
当時、指導現場だけでは学ぶ量が足りないと考えていました。
理由としては、共に働いていた指導者のレベルが高過ぎてそこに追い付くためには同じことをやっていては置いていかれると強く感じたからです。
毎日危機感しかなかったです。笑
指導者の世界は奥が深く、単純なものではないことをこの頃感じていました。
そこで自分が目を向けたのはライセンスでした。
まずはとにかく受けてみようと考え、学べる場所には足を運び指導者というものを多角的に捉えていきました。
覚悟を決める
ライセンスを取得した経験が、”フットボールで飯を食う”、”指導者を生業としたい”という思いを強くしたことは間違いありません。
ライセンス講習会により資格を取得したことで、覚悟を決めることができたようにも思いま
一生に一度ということもあり大学4年生時には就職活動もしました。
内定を複数社いただいたもののやはり自分の人生を考えた時に、フットボールと共に歩んでいきたいということが最後まで頭から離れなかったので、全ての企業にお断りをしてフリーターになることを決意しました。
その後、勤めている会社にて社員登用をされるものの当時ノンキャリアの学生がいきなり社員になれるわけもなく、フリーターとなったわけです。
ここが人生の岐路でした。
指導者にはゴールはない
指導現場としてスクール業務を受け持ち、あれよあれよと15年以上。
社外においてもU-18サッカー、U-18フットサル、社会人フットサルと指導現場を持たせてもらえる機会があり、自己研磨をしてきました。
幾つになっても、何年指導してきても納得にいく指導をできたことは一度もありません。
まだまだ未熟であるものの、これができれば完璧だというものは指導者には無いようにも思います。
常に学び続けなければこの世界を生き抜くことはできないことをつくづく感じます。
ましてトップレベルの選手経験を持っていない自分にとって立ち位置は凡人。
そんな指導者が選手経験も含めて豊富な指導者に食らいついて行くにはインプットの量を高めるしかないと常に考えています。
ゴール無き学びを繰り返し、最高無き指導に打ち込む。
成長を追い求めることができない指導者は長くは続かないのでしょう。
それが自分の結論です。
指導者を目指すあなたへ
大好きなサッカー、フットサルを仕事にしてみたい。
そんなことを考える若者は徐々に減ってきている印象を受けます。
しかし、日本におけるフットボールは根強く人気があり、少なからず”フットボールで飯を食う”という自分と同じ目標を掲げている人はいるでしょう。
そんな人たちに伝えたいのは、人生かけて本気になれば必ずできるということです。
甘い世界ではありません。最大限の努力が必要です。
でも、どうでしょう。
どんな仕事でも、どんな職業でも甘い世界なんてないと思います。
最大限の努力を求められます。
それと何ら変わらないということです。
であるならば、好きなことに没頭して、夢中になっているもので職を手にした方が人生が豊かになるのではないでしょうか。
フットボール指導者。夢のあるとても素晴らしい仕事だと思っています。
同じ志を持った指導者が多く現れることを願ってます。
以上、お読みいただきありがとうざいました。
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